今からおよそ400年前
人々のキリストへの信仰心を、支配者がおおいに利用していた時代
これは、17世紀オランダで起きたおはなし
16世紀、カトリック教会の権力と腐敗への抵抗が、ヨーロッパ各地で起こり始めていた。
列強国であるスペインの領土に、ネーデルラントという国があった。
ネーデルラントは、カトリック教派とカルバン主義者で分かれていた。
スペインのカルロス王子はカルバン主義者を徹底的に弾圧、
カルバン主義の要人を次々に処刑していった。
1568年、
これに立ち向かう形で、ネーデルラントのカルバン主義者を中心に
スペインと独立戦争が勃発。
スペインとの戦いは長きにわたり、独立戦争開始から41年後の1609年、
ついに彼らは独立を果たし、世界にオランダ国が誕生することとなる。
この戦争のことを後に人々は、オランダ独立戦争と呼んだ。
長きに渡る独立戦争を終え、繁栄を謳歌することで
彼らは間もなく
オランダの黄金期と呼ばれる時代へと歩み始める
カルバン主義ってなに?
カルバン主義とは、キリスト教のプロテスタント教派の一つ。
当時カトリック教会は、政治そのものであり絶大なる権力を持ち、それを乱用していた。教会の財政難から、罪の許しを得る「免罪符」をローマ教会が国民に販売したのをきっかけに、ルターとジャン・カルバンの抗議を口火に宗教改革戦争が起こした。
1517年有名なルターと同時期に、当時絶大な権力を持っていたカトリック教会を抗議したことから、彼の考え方がカルバン主義と呼ばれるようになった。
カルバン主義は、プロテスタントの中でも最も禁欲的な教えであることで有名で、金儲けは否定する最も保守的な教派であった。
世界3大バブルで最も古い「チューリップバブル」編
16世紀、オスマントルコでお仕事をしていた神聖ヨーロッパ帝国の大使のビュスベクさんという人が、「トルコ語のターバンに由来する花の球根」を見つけて、故郷のヨーロッパに持ち帰った。
ビュスベクさんは、当時フランスの植物学者カロルス・クルシウスにその球根を贈った。
球根をもらった植物学者カロルスさんは、希少な植物としてその球根を国内で紹介。
その後、カロルスさんは球根の栽培&研究のために、フランスから花を育てるのに適したオランダに移った。
その球根の正体がチューリップであった。
貴族や富裕層にとってチューリップは当時、異国情緒あふれる珍しい花だった。
植物学者カロルスさんは球根を貴族や大商人などに配り、巨額の代金を受け取った。
画像:A Dutch Garden of 1600s. Liebig card, late 19th century/early 20th century.
そんなことがあり、チューリップは貴族や植物学者の庭園で植えられるようになって、ヨーロッパでいちばんの金融家だったフッガー家も自分の庭園にチューリップを植えていた。
オランダは、平地で土壌が肥えているため、花を育てるのに最適な地形をしている。
花壇の中央に高価で貴重なお花を植えて、風景の中で色彩を際立てることで自分の偉さやすごさを見せつけてた。それで好まれていたのがチューリップだった。
そんなこんなで、チューリップは当時のオランダ人にとって、いちやく富の象徴とされ、高値で取引されるようになったんだ。
間も無くチューリップ収集家が現れ、品種を花の色で分類し、「無窮の皇帝(むきゅうのこうてい)」など名前をつけ、希少性でランク付けをしながら富の象徴としてチューリップ収集を楽しんでいたんだ。
熱狂前から最高級とされた「無窮の皇帝」
画像:https://ja.wikipedia.org/wiki/
1630年代にはオランダだけではなく、ドイツやイギリスの資産家の間でも「チューリップを収集していない資産家は趣味が悪い」と言われるようにまでなった。
17世紀はじめには、珍しい品種がとてつもない価格で取引されるようになった。
最高ランクのチューリップ「無窮の皇帝」は、なんと当時のオランダの首都であったアムステルダムで、小さな家が買えるほどの額、1200ギルダーで売買されてた。
※当時の大工さんの平均年収が250ギルダー。最高級のチューリップ「無窮の皇帝」には17世紀初めの時点で一般国民の平均年収の約5年もの価格がついたことになる。
ここが良いのよ!みんなを虜にしたチューリップの魅力!
ということで、ここからはオランダ国民やヨーロッパ中の富裕層を虜にしたチューリップの魅力に迫っていく。
花の色合いが偶然や病気に左右され、誰でも一攫千金を夢見ることができた
チューリップは栽培は、短期間で育てるのは難しい花であることに加え、実はチューリップには普通の花には見られない独特の性質がある。
それは赤や黄色の普通のチューリップが、翌年に突然白と赤が複雑に混ざり合った模様(もよう)になったり、炎状や羽状の模様になったりすることだった。
これはアブラムシが球根(きゅうこん)に運ぶウイルスが原因で起こることで、こういった模様の突然変異(とつぜんへんい)は「ブレイク」と呼ばれる現象。
この現象がアブラムシが運ぶウイルスだということがわかったのは電子顕微鏡ができた19世紀。
17世紀当時では、どのチューリップ栽培家でも、どうしてもこの模様の特別変異の原因を見つけることができず、チューリップが自らの意思で模様を変えているとさえ言われていた。
ただウイルスの感染によるものなので、ブレイクしたチューリップは普通のチューリップよりも弱くなり、栽培しにくくなるという問題もある。
弱るほど色合いが淡く、多彩になって美しくなる・・・
この儚さ(はかなさ)と偶然さが合わさって、美しい模様のあるチューリップが生まれる・・・
こんな理由からお金持ちの資産家は、こぞって珍しい模様のチューリップを飾って、みんなに自慢してた。
チューリップ特有のブレイクという変異した模様には、指紋のように一つも同じものはできない。
さらに
- 一つの球根からブレイクした花が咲くと、その球根からはブレイクした花が咲き続けること
- その球根からとれた子球根も親球根と同じ特徴を持つこと
などの特徴があった。
ただブレイクしたチューリップはウイルスで弱っているため、ブレイクした球根から球根を取るのはとても難しく、と〜っても希少性があった。
さらに、球根の状態ではどんな花の模様がつくかがわからないというドキドキワクワク要素があった。(球根につくウィルスで模様が変わるため、前もってわからない)
一度何かの拍子でキレイにブレイクすれば、誰でも大金が稼げる可能性があった。
つまり普通の球根を植えても、一般的な人の年収5年分の価格がついている貴重で最高級の「無窮の皇帝」が咲く可能性があったということである。
短時間で増やすのは難しいけど、チューリップを育てるのは手間もかからず簡単だったので、誰でも育てることができた。
そこそこのお金が必要になる株を買うことができない人でも、球根くらいなら誰でも売買することができた。
こんな背景もあって、普通の一般市民もチューリップの売買をするようになって、チューリップ市場ができるようになった。
貴重な品種の球根は0.5グラム単位で重さが計られて、当時大流行りしていた東インド会社の株式と変わらないほどオランダ中で一般的に売買されるものとなっていた。
チューリップバブルの始まり
1630年代オランダに住む人たちは、独立戦争も落ち着いて
- いや〜なスペイン軍に怖い思いをしなくてすむようになった
- 30年戦争(ヨーロッパを巻き込んだカトリック派vsプロテスタント派の宗教戦争)にも巻き込まれなかった
ということもあって、比較的のんびり暮らしていた。
それに加えてオランダ織物(おりもの)が貿易ブームとなって、景気がすごく良かったんだ。
1630年、パリやフランスで北部で球根の価格が上がっているとの噂が立ち始めることで、一般市民もチューリップ球根を求めて、チューリップ市場に現れるようになったぺぺ。
1633年から35年にかけて、オランダ国内で疫病が流行って、職人や労働者の賃金がかなり上がっていた。
大工や配管工、農民、紡績屋(ぼうせきや)さん、靴屋さん、パン屋さん・・・などがそこそこの大金を得ることも珍しくなかった。
そういったお金で、ごく普通の一般人が球根を買おうとチューリップ市場に足を運び、チューリップの球根に財産をつぎ込んでいった。
アマチュア球根収集家(きゅうこんしゅうしゅうか)や大商人など裕福な人は、一般人が球根を買いあさって球根価格がすごい勢いで上りだすと、姿を見せなくなった。
大商人は、当時ヨーロッパ中を夢中にしていた東インド会社などの株に投資をしていて、あくまでもチューリップは趣味としてと割り切っていて、価格急騰を見て収集を止めてたんだ。
チューリップ市場ははじめ、(買いたい人と売りたい人がお互いに探しあって売買するという)相対(あいたい)取引で行われていた。
だけど、人数が増えるに従って、居酒屋さんで、お酒を飲みながらまとめて球根の入札が行われるようになった。
居酒屋さんはこれを商売のチャンスとして、手数料として3ギルダーを酒代として徴収してすごく儲けた。
チューリップ球根一つで家が建った!!バブルピーク時の様子
「居酒屋でビールを飲み、タバコを吸い、魚や肉の料理を食べ、鳥やうさぎの料理まで食べ、デザートまで出る。
朝から夜の3時から4時まで楽しんだ上、ちゃんと儲けてくる」
チューリップ投機が最高潮に達した1636年〜1637頃、一日中居酒屋に入り浸って、チューリップの売買をしていた人はこんなことを言っていた。
チューリップで儲けた人は、そのお金で馬車や馬を買って富を楽しんだ。
その頃には球根は実際に受け渡しはされなくなっていた。
というのも、球根ができるのに時間がかかるので、今花壇(かだん)の中に眠っている次の春に手に入る球根を売ったり買ったりする約束して取引をしていたんだ。
つまり、今でいう先物取引である。
【脱線豆知識】実は世界で初めて先物取引所を作った日本
先物取引所が世界で最初にできたのは実は1730年の日本である。
毎年収穫量が安定しないお米の価格の変動を抑えようということで始まったものある。
その100年も前に、取引所はないものの、ほぼ同じ取引がヨーロッパで国を挙げて行われていたのがすごい。
売り手はある品種のある重量の球根を渡すと約束する。
↓
買い手はその球根を受け取る権利を持ち、代金は*手形で決済。
↓
球根が手に入る春までの間に、球根を受け取る権利を他人に時価で売る
という手口で儲けていた。
*手形=お金を〇〇という期日に支払いますよ〜という約束の証明書
ちょっとわかりづらいかもしれないので図解していく。
チューリップ球根の先物取引が始まると、すぐに球根売買のほとんどは売買する球根の実態がないものになった。
球根を先物で売る約束をしていたのが農家ならまだ良い方で、実際はチューリップなんて手元になく球根を手に入れる方法がないのに、先物として球根を売ったりする人が多く、めちゃくちゃだった。
何しろ球根を売っても、実際に球根を引き渡すのが来年の春だから、それまでになんとかすればいいやとみんな考えていた。
球根を先物で売った人は球根を渡せないし、買った方も手形で決済したものの、実際に球根を買うお金はなかったので、手形は不渡りになるしかないものがほとんどだった。
チューリップの先物契約の頭金のために家や土地を格安で売りに出す人も多かった。
チューリップ価格はそれでも上がっていたので、それにつられるように生活品や、土地や住宅、馬や馬車などの値段も上がった。
ここからは、実際にどれくらいチューリップの球根価格が上がっていったのかを見ていく。
当時のオランダの物価感覚
オランダ人の平均年収が150〜400ギルダー
小さなタウンハウスは300ギルダー
最高級の絵画で1000ギルダー以下
かなり大きな庭や馬車置き場の付いている家の価格の相場が約1万ギルダー
凄まじかったチューリップの球根価格
ゴーダという品種
0,2g:20→225ギルダーに
「大元帥」という品種0.5g
95→900ギルダーに
何の変哲もない黄色い花がさくクルーネン種約453g
20ギルダー→数週間で1200ギルダーに
(つまり月の給与で買えたものが年収の5倍になった)
「福王」という球根
2500〜3000ギルダー。
(ちなみに2500ギルダーで、小麦27トン、ライ麦50トン、バター2トン、チーズ2トンが買うことができた。)
チューリップの王様「無窮の皇帝」
10,000ギルダー
無窮の皇帝は熱気の間もあいかわらず球根の帝王だった。チューリップ熱狂が始まる前の1625年には、2400ギルダーだったのが、熱狂が始まる1633年には5500ギルダー、ピーク時には1万ギルダーの価格がついた。
平均年収の30年分の価格がついた無窮の皇帝画像:https://www.dukascopy.com/
これはピーク時には、当時のオランダ人の年収のおよそ30~60年分の給与の値段がついていたことになる。
ちなみに、無窮の皇帝の球根1個の価格は、首都であるアムステルダムの運河沿いで最も高額な家よりも高かったと記録されている。
あまりの熱気の凄まじさを見て、居酒屋に入り浸っていたチューリップ投機家も
「こんなことは後2.3年しか続かないだろう。それだけ時間があれば十分だ。
売り手よりも買い手の方が多くなっても不思議ではないが、そうなれば熱気は一気に冷え込むだろう」
と、こんな風に言っていた。
チューリップの球根にまつわる伝説
ここで、チューリップ熱気の凄まじさから、数々の伝説的な出来事がオランダで起きた。
実際にあった話か伝説かは、見方が分かれているみたいなんだけど、2つを選んで忠実に再現してみた。
第1話:船乗りの朝食
第2話:アマチュア植物学者
*注釈
植物学者が、オランダ人富豪の家の温室で球根を見つけた。
チューリップを知らなかった学者は、実験しようと球根の皮を剥き始めた。
半分の大きさにまで剥いて球根を半分に切り分けて断面図を研究していた。
オランダ人富豪はそれを見るなり大激怒。
学者が4つに切り分けた球根は、時価で4000ギルダーする球根だった
学者は裁判で有罪判決を受け、そのまま牢屋行きとなった
笑い話にしか見えないけど、当事者にしてみたらシャレにならないぺぺ・・・
オランダ中が、チューリップの値上がりで盛り上がる中・・・・
1637年2月3日
ついに
チューリップ市場が突然暴落
1637年2月3日、何の前触れもなく突然チューリップ価格が暴落した。
それをきっかけに、
「隣町のハールレムでチューリップを買う人がいなくなった」
という噂が流れ、その翌日、チューリップは価格がいくらでも売れなくなった。
チャート:http://www.lend-lease.org/
誰にも理由はわからないけど、理由らしい理由といえば、春が近づいてチューリップの引き渡しの期日が来ると、誰もチューリップの球根を引き渡すことができないことぐらいしかなかった。
チューリップの先物価格も暴落。たったの6週間で10分の1に下がったチューリップもあった。
チューリップ保有者は自分の購入金額の1/4でも買い手を見つけることができず、オランダ中がパニックに陥った。
チューリップ球根の代金の手形は次から次へと債務不履行になり、園芸を職業にする人たちは投機家に支払いを求めたが、誰も代金を回収することはできなかった。
お金のそこまでない中流層〜下流層の人は、自宅を担保に入れたり家財を売り払ったりして球根を買っていたので、一瞬のうちに無一文になっちゃった。
チューリップバブルが弾けた年、人々は裁判所に駆け込んだため、債務不履行関連の訟訴(しょうそ)が続いた。
翌年の1638年5月に、政府が合意価格の3.5%の支払いでチューリップの売買契約を破棄できると宣言、混乱は収束した。
オランダ中が大混乱になったけど、後にフランスでイギリスで人の手によって起これたミシシッピバブルや南海バブルとは違い、経済危機を引き起こすようなことはなかった。
経済の中心であった大商人などはチューリップ熱気が始まった時点で手を引いていたからなんだ。
バブルが弾けて混乱が収束すると、熱気が始まると同時に姿を消したチューリップアマチュア収集家が現れて、また珍しい品種の球根を安値で買うようになった。
商店が店を構え、危険を冒して商品を海外に送ることに
子供が仕事を覚えることに
農民が種を蒔き、あれだけ苦労をして土を耕すことに
船員が厳しく危ない海を航海することに
兵士が命をかけることに
どんな意味があるのですか
それで得られるものはわずかだし
チューリップでこれほどの利益を得られるのだとすれば
「バブルの歴史」エドワードチャンセラーp45より
チューリップ熱狂の結果、ごく一部が金持ちになり、その他大勢が無一文になり、社会階層の間の関係が不穏(ふおん)になった。
その後、オランダではしばらくの間、チューリップは愚かさの象徴としてオランダ国民から嫌われ避けられるようになっってしまった。
チューリップ熱狂前は、美しさと、高級であったチューリップを買うよりも、チューリップの花束を題材とした絵画の方が安かったこともあり、画家にとっては馴染み深い題材だった。
でも熱狂以後は、チューリップは虚栄、贅沢、邪悪、無益の象徴として画家の心をつかんで、違う意味で数多くの絵画の題材とされた。
数年経つと
「無窮の皇帝」など、ごく一部の高価な球根は
熱狂が始まる前の水準まで価格が戻った。
しかし、ごく普通の球根が
以前の価格になることはついに最後までなかった。
当時オランダでのチューリップの高騰を見て、
チューリップ商人はイギリスでも熱をあおろうとしたが、
うまくいかなかった。
1720年、
イギリスで南海泡沫事件が起こるまでの約1世紀もの間、
当時の世界の中心、ヨーロッパにおいて
チューリップはバブルという意味で使われることとなる。
オランダでのチューリップの価格は
今でもどの国よりも高い。
世界3大バブル編が完結したので、次回からは近代バブル編にそのまま突入します。
長い記事を読んでいただいて本当にありがとうございました!
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